|
メルセデス・ベンツ・W25(''Mercedes-Benz W25'' )は、ドイツの自動車メーカーダイムラー・ベンツが開発したフォーミュラカー。1934年より施行された750kgフォーミュラに適合するよう開発された。 ドイツ製レーシングカーの代名詞である「シルバー・アロー」の由来となったマシンの一つである。 == 概要 == 1931年から1933年にかけて、グランプリレースは車両規定自由(フォーミュラ・リブレ)の状態で行われたが、国際自動車公認クラブ協会 (AIACR〔Association International des Automobile Club Reconnus。国際自動車連盟 (FIA) の前身。〕) は乾燥重量750kg以下、車体の幅850mm以下、最短レース距離500kmなどを主旨とする新規定(750kgフォーミュラ)を作成し、1934年より施行すると発表した。 メルセデス・ベンツは世界恐慌の影響で一時モータースポーツ活動を休止していたが、新規定発表を受けてニューマシンW25の製作に乗り出す。元レーサーのマックス・ザイラー (en:Max Sailer) 設計本部長がプロジェクトを統括し、ハンス・ニーベル(de:Hans Nibel) とマックス・ヴァグナーが開発を担当した。ふたりは旧ベンツ (Benz & Cie) 系の技術者であり、初めて時速200km/hの壁を越えたブリッツェン・ベンツ(''Blitzen Benz'' )や、ミッドシップレーシングカーの始祖たるベンツ・トロプフェンワーゲン(''Tropfenwagen'' )をデザインしていた〔菅原 『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ』、23頁。〕。 新規定は重量制限によりエンジン排気量を2,500cc程度に制限し、スピードの上昇を抑制することを意図していた。しかし、W25は徹底的な軽量化によりスーパーチャージャー付き3,360cc354PSエンジンを搭載し、最終的には4,740cc473PSにまでバージョンアップし、1934年から1937年にかけて自国のライバル、アウトウニオン・Pワーゲンとグランプリレースやスピード記録挑戦でしのぎを削った。 時の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は2メーカーのレース活動を資金援助し、ドイツ製品の優秀さを誇示するものとしてプロパガンダに利用した。アドルフ・ヒトラー首相はヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣とともにダイムラー・ベンツの工場を非公式訪問し、製作中のW25初号車について説明を受けている〔菅原 『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ』、24頁。〕。 W25は1934年から1935年にかけて10台が製造され〔菅原 『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ』、29頁。10号車はショートホイールベースの先行試作車〕、1936年にはショートホイールベース版の6台が製造された〔菅原 『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ』、53頁。〕。分類上、1934年型をW25A、1935年型をW25B、1936年型をW25C(もしくはW25K〔"K"はドイツ語で「短い」を意味する"Kurz"の略。〕)と呼ぶ場合がある〔菅原 『メルセデス・ベンツ グランプリカーズ』、29頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メルセデス・ベンツ・W25」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|